10月第4土曜日
続けての日曜日。
鹿児島では
鹿児島三大行事
のひとつ
妙円寺詣り
が開催される。
明日明後日っすよ。
(*´・ω・)σ

↑
足3本あるで
Bingくんww
鹿児島市内の
昭和のオコサマ
にとっては
小中学校の頃に
遠足的なイベントの一つとして
参加を強制されていたのではなかろうか。
妙円寺詣り(みょうえんじまいり)は、
鹿児島県日置市で行われる行事である。
鹿児島三大行事の一つ。
毎年10月における
第四週の土・日曜日に行事が行われる。かつての鹿児島城の城下町である鹿児島市から
武将・島津義弘が祀られている
徳重神社
を詣でる行事であり、
江戸時代から続いている。
小生も小学校の5年だった6年だったか
学校行事として
参加したような気がしないでもない。
↑
あまりに古い記憶でオボロゲww
妙円寺詣りの際には
1.明くれど閉ざす雲暗く 薄(すすき)かるかやそよがせて嵐はさっと吹くき渡り 万馬いななく声高し2.銃(つつ)雷(いかずち)ととどろけば 太刀稲妻ときらめきつ天下分け目のたたかいは 今や開けぬ関ヶ原3.石田しきりに促せど 更に動かぬ島津勢占むる小池の陣営に 鉄甲堅くよろうなり4.名だたる敵の井伊本多 霧にまぎれて寄せ来るや我が晶巌ら待ち伏せて 縦横無尽にかけ散らす5.東軍威望の恃みあり 西軍恩義によりて立つ二十余万の総勢の 勝敗何れに決戦や6.戦い今やたけなわの 折しも醜(しこ)の小早川松尾山をかけくだり 刃(やいば)返すぞ恨めしき7.前に後ろに支えかね 大勢すでに崩るれど精鋭一千われひとり 猛虎負嵎(もうこふぐう)の威を振るう8.蹴立てて駒の行くところ 踏みしだかれぬ草もなく西軍ためにきおい来て なびくや敵の旗の色9.家康いたくあらだちて 自ら雌雄を決っせんと関東勢を打ちこぞり 雲霞の如く攻めかかる10.かかれ進めと維新公 耳をつんざく雄叫びに勇隼人の切先の 水もたまらぬ鋭さよ11.払えば叉も寄せ来たり 寄すれば叉も切りまくり剛は鬼神を挫けども 我の寡勢を如何にせん12.運命何れ生か死か ここを先途と鞭ふるい奮迅敵の中堅に 活路(みち)を求めてかけ込ます13.譜代恩顧の将卒ら 国家(くに)の存亡この時と鎬(しのぎ)をけずる鬨(とき)の声 天にとどろき地にふるう14.篠を束(つか)ねて降る雨に 横たう屍湧く血潮風なまぐさく吹き巻きて 修羅の巷のそれなれや15.薙げど仆(たお)せど敵兵の 重なり来たる烏頭坂たばしる矢玉音凄く 危機は刻々迫るなり16.骸も染みて猩々緋 御盾となりし豊久を見るや敵兵且つ勇み 群り寄する足速し17.賜いし御旗ふりかざし 阿多長寿院駈け入りて兵庫入道最期ぞと 名乗る雄々しき老いの果て18.欺かれたる悔しさに 息をもつかず忠吉らくつわ並べて追い来しが 返す我が余威また猛し19.牧田川添いひと筋に 行く行く敵をけちらして駒野峠の夜にまぎれ 伊勢路さしてぞおち給う20.献策遂に容れられず 六十余年の生涯に始めて不覚をとらしたる 公の無念や嗚呼如何に21.興亡すべて夢なれど 敵に背(そびら)を見せざりし壮烈無比の薩摩武士 誉は永久に匂うなり22.無心の蔓草(つるくさ)今もなお 勇士の血潮に茂るらん仰げば月色縹渺(ひょうびょう)と うたた往時のなつかしや
この22番まである歌を暗記させられ
歌いながら歩いた記憶がある。
こんなん、覚えてたんか。
当時は。
小学生の記憶力、すさまじき。
おっさんの忘却力、いたましき。
(つд`)
今でもこの歌のメロディと
1番、2番ぐらいまでは
何となく覚えている。
その後、中学の頃には旧友と
「自転車で妙円寺詣りしようぜ~」
的なノリで漕ぎ出した気がするが
いきなり
みっかんざか
水上坂
の急勾配で体力を根こそぎ奪われ
中学時代は体力もなかったこともあり
友達の最新チャリンコに対し
小生のチャリは安物の
なんちゃってチャリだったため
友達から置いてけぼりを喰らい
エラい苦労した記憶が。
そもそも帰りはどうしたのか
トンと記憶がないが
自転車を置いて帰るわけにも行かず
JR(当時は国鉄ww)に乗ることも
できなかったはずで
再度折り返したのであろう。
(´д`)
ここで質問。
妙円寺詣り
なのにみなさん詣るのは
徳重神社
であることを
フシギに思わないのであろうか?
妙円寺詣りであるならば
妙円寺
を詣るのがスジではないかと・・・・
これにはウラがある。
かつて、現在徳重神社にある場所に
妙円寺
は存在した。
存在したのであるが・・・・
明治の世に行われた
はいぶつきしゃく
廃仏毀釈
により、妙円寺は焼かれたのだ。
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは、
明治時代の初期に起こった仏教を排斥する運動で、
仏教寺院・仏像・経巻の破壊、
僧侶の還俗などを指します。
これは、
明治政府が神仏分離令を出して
国家神道を国教化しようとした政策がきっかけですが、
全国的に大規模な仏教弾圧が行われました。
要するに
仏教を日本から廃し
神道に一本化しよう
という動きである。
鹿児島では特にその流れは強く
よって鹿児島には
古いお寺がほぼない。
妙円寺もその例外ではなく
お寺そのものは焼かれたのだが
そのご本尊であった
島津義弘の木像
はそのまま同じ場所に建てられた
徳重神社
に祭られたというわけだ。
そんなわけで現在では
徳重神社詣り
になってしまっているのだが
その後妙円寺も
別の場所に再興され
現在に到る。
そんなわけで、
妙円寺はあるのに詣るのは徳重神社
といういびつな関係になっているのであった。
もっとも、
現在の妙円寺と徳重神社は

ごくごく近い場所
にあるので
機会があれば双方お詣りしてみては?
そんな
街歩きガイドブック的な
締めくくりはさておき。




































































































































































































